【祈りの輪】アダム・フォン・トロットとイムスハウゼン共同体について(その2)
共同体イムスハウゼンとアダム・フォン・トロット
- 服部編集長から、共同体イムスハウゼンを紹介する記事を書くよう仰せつかった。が、私自身スコラのドイツ旅行に参加したことがなく(時私はまだ高校生であった)、イムスハウゼンについては話を聞いて想像を膨らませるばかりであった。この共同体での素晴らしい体験について、多くの方が第2回研修旅行の感想文集の中でふれておられるので、今回はこの共同体が設立された経緯を中心に書いてみたいと思う。
- 1949年、イムスハウゼンの丘の上に簡素な背の高い木の十字架が立てられた。十字架の足元の石にはこう刻まれている ――“アダム・フォン・トロット、1909年8月9日生、1944年8月26日昇天。我らの故郷の破壊者と戦い、同胞と共に処刑された。彼らのために祈り、その生涯を心にとめよ。”
- 彼らの「故郷の破壊者との戦い」とは、1944年7月20日に実行されたヒットラー暗殺計画のことである。当時、外務省・公私館書記員という要職に就いていたアダム・フォン・トロットは、公にはナチス党員を名乗りながら、ナチス抵抗運動とこの暗殺計画を密かに推し進める一人であった。この日、「狼の砦」と名づけられたナチスの統率司令部で、ヒットラーを交えた作戦会議が行われていた。アダムたち暗殺計画者はそこに爆弾を仕掛けた。数時間後、彼らのもとに知らせが届いた。「ヒットラーは軽傷を負っただけでその場を逃れた」のだった。
ヒットラー暗殺は既に1943年から合計7回に渡って試みられていた。しかしそのいずれも未遂に終わっている。最後の試みが失敗に終わった時、暗殺計画とナチス抵抗運動の存在が明らかになり、これに加わった者たちはすぐにナチスの復讐を受けることになった。まず翌日の夜、4人の首謀者が銃殺された。ヒットラーは、この計画の共謀者を「死刑の判決後2時間以内に、家畜を屠殺するように絞首刑に処す」よう指示している。ナチスによる国民裁判が猛スピードで進められ、8人に死刑が執行された。このうち一人には、「一族全員の責任」が課せられ、「良い見せしめのために」その家族全員が捕らえらた。アダムが逮捕されたのは7月25日、その1ヵ月後にベルリンのプレッツェンゼーで処刑された。獄中で35歳になったばかりだった。
- 第二次大戦が始まる前からアダムは、戦争の回避とナチスの解体のために力を尽くしていた。戦争直前には頻繁にイギリスに渡って戦争回避の交渉を続け、英首相ネヴィル・チェンバレンとナチス抵抗運動計画について話し合った。また米大統領フランクリン・ルーズベルトから抵抗運動の支持を取り付けることにも成功している。だがその努力も空しく、1939年9月、戦争が始まった。アダムは再度アメリカに渡り、平和維持交渉を試みたが、スパイ容疑でFBIに追跡されたため失敗した。多くの知識人が国外亡命を図るなか、彼は亡命の可能性を断固拒否し続けた。あくまでドイツで、真のドイツ人として、反体制運動を続ける道を選んだのである。翌年には、反体制派であることを隠すためNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチ党)党員となった。
その後4年間で計18回、周辺諸国へ赴いている。彼の任務は、各国の国民にドイツイコールナチスではないことを説くと同時に、ドイツが完全に敗北する前にドイツの反体制派との交渉に臨むよう、またドイツでクーデターが起きた場合これを軍事的に利用しないよう、西側連合国に働きかけることであった。こうしてドイツを破滅から救おうと必死の交渉を続ける傍ら、1943年には既に、新経済体制やナチ犯罪者の処罰そして将来のドイツ外交における基本方針についての協議を重ねていた。
- こうした危険と勇気に満ちた尊い努力の末に、アダムはヒットラー暗殺計画失敗の犠牲となったのだった。彼がその死の10日前、妻に宛てて書いた最後の手紙。
「・・・・・・あなたはきっと分かってくれるでしょう。私は極端な程この国の外交政策に集中し、権力者の間で様々な経験を積んできました。今私が最も心を痛めているのは、その経験と力をもはやこの国の役に立てられないということです。もっとこの国を助け、役に立ちたいと、また私自身の思いや提案を他の人々のために書き残しておきたかったと、心から思います。しかしそれは叶えられずに終わってしまうでしょう。この国が、現代のあらゆる変化と度重なる困難にあって不変の正義を見失わないよう、また権力者の他国侵略に反対する意思を持ちつづけ、行動するようにと願って試みてきたこと、その全ては、私が父から受け継いだ故国への愛と、思いと力から出たものでした。それだから、いつの時も外国に留まる可能性を捨て、故郷への帰路を急いだのです一自分が必要とされ呼ばれている、と感じたこの国へ。それにしても、私が外国で学び、またドイツのためにしてきたことが、どんなに私自身を助けたことでしょう。こんなに広く多岐に渡った経験と可能性を与えられる人はそう多くありません。だから私は、自分がいなくなっても、この多くのつながりから、必要な時に望ましい形で互いの理解が生まれることを今願わなくては、と思うのです。でも、種を蒔く者が、芽の出かけた種を他人に渡してその手入れを任せるのは簡単なことではありません。種蒔きから刈入れまでには幾度も嵐が襲うのですから・・・・・・」
- アダムの蒔いた種は、彼の古里イムスハウゼンから豊かな収穫をもたらした。戦争終結から4年後、ここに戻ってきた彼の姉妹は“共同体イムスハウゼン”を設立した。共同体発足当時の記憶を綴った文章から。
「・・・・・・戦争のあらゆる重荷に耐えてここで暮らす子供たち、青少年、そして大人、その誰もが自分の苦難を抱えていました。毎日の生活は相変わらず大変なことばかりでした。それでも、一日一日が朝の祈りのうちに迎え入れられ、格闘と喜びと克服の後に、皆の愛する夜の祈りのなかに消えてゆきました。幼い者も年老いた者も自分の祈りと歌を心に持ち、共に神を讃美しました。こうして広い空の下で数年が過きていきました。展望や目的もない、しかし実りある月日が流れていくうちに、皆が癒しを経験していったのでした…・・」
今は大きくなった共同体の建物を遠くから見守るように、イムスハウゼンの丘がある。こうして話は冒頭の木の十字架に戻ることになる。
- 「様々な人が出会い、与えられた一日を労働と対話と祈りのうちに過ごし、互いに排斥し合うことなく自分を殺すこともなく、調和を見出だすことのできる場所」ーーこんなふうにイムスハウゼンを伝える記事を見つけた。
この共同体を訪れる日を、私も心待ちにしている。(小林 なほ)
参照;小冊子 ”Stiftung Adam von Trott Imshausen-Zur Einweihung des Hauses in Imshausen / Johannistag 1998″
ホームページ”Adam von Trott zu Solz http://www.dhm.de http://hann–muenden.net 他
第3回ドイツ・ハンガリー音楽研修旅行 Schola Cantorum, Tokyo (コンティヌオ123号から旅行記に転載)
<注>東京スコラ・カントールムが橋本周子先生の引率で2000年4月下旬から5月上旬にかけて、ドイツとハンガリーを巡る音楽研修旅行を実施しました。イムスハウゼン共同体とアダム・フォン・トロットについて、団員の小林なほさん(現在ドイツで教会音楽家として活躍中)に執筆を依頼し、団内機関誌「コンティヌオ」に掲載した原稿を旅行記も掲載しました。その原稿を改めて聖グレゴリオの家のウェブサイトに転用させていただきました。ありがとうございました。