【追悼文】橋本先生の思い出(斎藤成八郎)
橋本先生の思い出
東京スコラ・カントールム 斎藤成八郎
1979年、45年前に5人のクリスチャンが発起人となって教会音楽を専門とした合唱団が発足した。そして同じ時期に、聖グレゴリオの家宗教音楽研究所の発足に巡り合った。その頃の状況を橋本周子先生が書かれた文章を紹介する。
「中略――そのような二つの動きが今から30年前にありました。宗教音楽を大切にし、広く人々に伝えたいとの願いから生まれた団体です。その一つが音楽愛好家たちによって結成された東京スコラ・カントールムで、もう一つは、特に典礼音楽を中心に同じような目的で設立された聖グレゴリオの家宗教音楽研究所です。」これは、両者が共に創立30周年を祝って、合同記念演奏会を開催したときのプログラムに掲載されたものの一部である。
◼️聖グレゴリオの家と東京スコラ・カントールム
東京スコラ・カントールム(以下、スコラと略して記す)の発足の頃は、ルネッサンス、バロック時代の教会音楽を耳に触れる機会が多くなった流れにあった。そして聖堂の響きやアンサンブルの澄んだ透明感の魅力に、自分たちのハーモニーやアンサンブルの夢を託するように取りつかれ、先ず、教会堂で歌うことを望んだ仲間を募って始まった。それから間もなくして橋本先生と面識のあった発起人の一人の発案で、聖グレゴリオの家の聖堂で行われるミサに出席し,その響きの素晴らしさ、ヨーロッパ風の佇まい、橋本先生、ゲレオン神父にもお逢いして、この場所こそ我々の夢を満たしてくれるとの希望を実感した。幸いなことに1980年に、この聖堂の鐘楼が完成し、その祝別式と初鳴らしに、橋本先生のお声掛かりでスコラが招かれ、奉唱のお手伝いをし、さらに聖堂の前の芝生でスコラ愛用の赤いガウン姿で歌った。これはスコラの草創期の記念すべき活動の一つとして覚えられていることである。
それ以来、スコラは合唱団としての演奏活動に並行して、聖グレゴリオの家のミサにも出来るだけ出席して奉唱のお手伝いが出来ることを望み、先生からの要望もいただいたので、各自、可能なものは自主的に参加をした。クリスマスの深夜ミサ、外国からの枢機卿の来訪などの特別典礼などにも参加した。その機会にグレゴリオ聖歌やモテットを数多く習い、歌うことが出来、時には先生の個人指導にも与り、ネウマの読み方,歌い方、歴史などのご教導を頂いた。響きの素晴らしい聖堂に助けられると、自分の歌がうまく聞こえてにすっかり気持ち良く感じてしまうのだが、そのようなことは橋本先生の指導にはそぐわず、そこに祈りが表現されるにはやはり奥の深い鍛錬と熟成の時間が必要であることを感じさせられた。自分なりにうまく歌おうなどと思ってしまうと、それが指導の対象になるのである。しかしまた、先生は褒め上手でもあり、その気にさせられることもあるので、お手伝いの声がかかると嬉々として参加したが、それをどう受け止めるかは心して感違いしないようにしなければならない。先生のペースをつかむのに最も困ったのは、正直なところ、延々とした悠長な時間感覚であった。忙しい年頃であったので、通常とは違う時間の流れを感じたが、橋本先生にグレゴリオ聖歌を習うならば、このような特別の場所に浸ることが出来なければならないことを覚悟させられたように思ったものである。
1981年にグレゴリオの聖歌隊が出来てからもスコラでは有志が参加したり、正式に聖歌隊に在籍したものもあった。
グレゴリオの聖歌隊は1986年に再編成されたが、それからはスコラとしてのご当所の行事への参加は少なくなったのであるが、スコラでは常任指揮者をお願いしていた黒岩英臣先生と並行して、橋本先生にもカントーリンとして練習指導をお願いした。その時期は長く、2009年ごろまで続いたと記憶している。特にグレゴリオ聖歌の節廻しは、後世代の西洋音楽の基本が沢山含まれて居ることを知り、この古い典礼栄唱に原点があることを教えられたことは目からウロコであった。
◼️ドイツへの旅、ドイツとのつながりから学ぶ
スコラが合唱団として教会音楽の経験を積み上げ、同時にコンサートの主旨をチャリティーとして重ねてきた1986年に、橋本先生がケルンに留学されたころ通われたクニベルト教会を覚えて、収益金を当教会に献金するためのコンサートを開催した。この発端は、グレゴリオの家がお世話になっているドイツの教会が、まだ戦後の復興が完結していないにもかかわらず、日本のこのような活動を援助してくれていることに、少しでも感謝の意を表したいとの先生の思いから、スコラの団員も、豊かになりつつある自国の状況に鑑みて、そのことを深く同感して始まったことであった。
思えばこれがドイツ研修旅行のきっかけとなったようにも思う。また、ゲレオン神父のお人柄や、ドイツにおけるご経歴や教会、修道会でのお働きを伺っていたことにも増幅されて、スコラ創立10周年の記念行事として、1990年に最初のドイツ旅行を行うことになった。ドイツ旅行に関しては、後で触れるが、クニベルト教会のあるケルン市には第1回目から何度も滞在し、この教会の方々にはその度に親切に対応していただき、便宜を図っていただいた。また、この教会の聖歌隊との交流の体験は、私個人としても、発声法について考えさせられる起点ともなったと思う。
ドイツには、単に歌って観光する目的で行くというよりも、聖歌の原点の雰囲気や歴史を肌で学び、経験することを我々の音楽の糧にして行きたいとの願いを持った。そこで橋本先生に相談を持ち掛けたとこいろ、先生はそのことを喜んで受けてくださり、それにはどうしたらいいか、ゲレオン神父と共に真剣に考えて下さった。こうしてドイツ旅行は5年おきに5回行うことになっていった。そして先生の留学以来の長年にわたる人脈、ゲレオン神父のキリスト教界の広い人脈を利用して、当地の教会や修道会だけでなく、民間の人々と交流することによって、当地の社会や生活を体験し、歴史に接するのを可能にする場を準備してくださったのである。
いざドイツに行ってみると先生の人脈の広さ、親密さには驚かされるものがあった。教会の人たち、各地の修道院の司祭神父、マザーやシスターたちは、それぞれに日本からの来訪を心を尽くして友好を表し、歓迎して下さり、一緒にミサを守り、われわれの讃美に耳を傾け、本場の讃美を聴かせ、食事をし、話をし、歴史を尋ねたりなどして楽しく過ごすことが出来た。丁度東西のドイツの統合が決まって間もない時には、国境を超える検問に会ったし、道路も列車も両ドイツ間の格差はこんなにもと驚いたものであった。その中で、当時、東ドイツに属していたバッハやルターの所縁の地、アイゼナッハ、ミュールハウゼン、ケーテン、ワイマル、ライプツイッヒなどを訪れ、聖トーマス教会、聖ニコライ教会で歌い、近郊のプロプスタイ教会の晩祷で奉唱し、教会員たちの家庭に二人づつ分かれてホームステイをした。そこでの生活状況や、社会主義体制の圧政下の状況とそれからの開放の話などを聴くことが出来たのは、得難い経験であったが、これも橋本先生と、ゲレオン神父と、ご友人のヘレッチさんが、私たちの期待を超えた幅広い行き届いた準備をしてくださったお陰であった。
当時橋本先生がドイツでのお働きの拠点のようにされていたのは、イムスハウゼンの共同体であろう。先生の導きで訪れたここに、我々は魅せられ、旅行には必ずここを訪れて礼拝に参加し、奉唱の機会もいただいた。ここは、第2次大戦下の教会の宗派分裂を批判して、超教派の共同体として形成されたと聞く。独自の礼拝形式、讃美歌を持ち、ゆるやかな起伏のある広大な農地を持ち、そこで可能な限りの自給自足を志す。共同体で生活する人達以外に他国からきている青年も何人かいた。ここのオルガンなどの楽器を使わない人声のみの讃美の交唱は、特に美しく、絶妙な間をも含んで、聖なる祈りに満ち、われわれは鎮まって聴き入るほかはないほど感動した。橋本先生は、ここの形を日本の聖グレゴリオの家でも実現することを考えられたと思う。
私たちは、毎回のドイツ旅行を通して、このイムスハンゼン共同体での礼拝と生活と音楽の経験を大切にして、ここを軸とした旅を繰りかえした。2回目の旅行では足を旧東ドイツのチェコ、ポーランドの国境付近まで延ばして、当地の教会や聖書日課「ローズンゲン」を出版するヘルンフート兄弟団の史跡を訪問したり、教会聖歌隊との交流や民泊もした。地方のある町では、われわれのためにコンサートも開いてくれたところもあった。母国へ帰られたゲレオン神父にもお目に掛かれたし、神父のお友達のヘレッチさんには、特に旧DDR(東ドイツ)方面の教会や修道院その他にも広く顔を利かして支援していただいた。
3回目からは、イムスハウゼン共同体に加えて、ザンクト・オッティリエン修道院でのミサと祈りの生活体験の時を軸とすることにして、両方の滞在の日を多くし、日に何回も行われるミサや晩禱にも自由に参加し、修道士たちが歌うグレゴリオ聖歌を聴いた。この方法は、スコラの面々一人ひとりの心の中に深く影響をして、これを機に洗礼を受けたものもいる。
旅行は、3回目にハンガリーのブダペスト、4回目はポーランド、5回目はスロベニアまでと、周辺国に足を延ばした。ブタペストでは日本におられたネメシェギ神父に再会して、あろうことか当地のミサで神父の日本語の説教を聴くことが出来た。5回目には、シルギスバルデの教会に眠るヘレッチさんの墓前にお参りをしたのち、聖歌隊との合同奉唱もすることが出来た。
◼️歌い続けることのできる幸い
橋本先生は、これらの旅行を計画し、引率し、要所々々で指導をいただきながら、お馴染みのあの愛嬌の笑顔と鋭い感をもって見守ってくださった。旅行中は、真面目な生活に終始するだけでなく、笑いあり、失敗あり、新しい出会いや見分に感動し、互いの経験を語り合う楽しい宴の場まであったのは、橋本先生の教会音楽の探求の姿勢だけでなく、教会と日常の生活の豊かさと、それを取り巻く理解ある方々が醸し出した、現実を超えた主の平和の先取りのような笑顔で見守ってくださったお陰である。旅行の詳細については、その都度編纂された「Vielen Dank Deutshen Freunde」というスコラの旅行記集に参加者が楽しい文集を沢山寄せているので、ご興味のある方にはご紹介も可能である。
橋本先生ほどグレゴリアン・チャントを愛し、研究と教育の場として本場の教会と長期間常に直接に繋がり続けた方を他には存じ上げない。そのほか多くの感謝と思い出が尽きないが、教会音楽が、本来的に生活の中から祈りとして生まれることを願う先生に、友のようにして導かれた日々があったからこそ、今でも心を燃やして聖歌を歌うことが出来る。橋本先生にはこのことを感謝して、なお歌い続けながら、暫しのお別れとする。